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論語に「学び」を学ぶ(第3回)

「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(雍也篇)(その2)

 学びには段階がある。何か興味のあることを学びたいと思ったとする。その学びの第一歩は、そのことに関する知識を収集することである。「学ぶ」ということは、自分が学んだことを他人に説明できてはじめて学んだことになる。他人に説明するためには、言語を使用する。言語を使用するためには、知識が必要である。初心者にとって、知識の獲得は苦痛を伴う。苦痛を伴う理由は、その知識がどのように役立つのかわからないからである。むかし「サイン・コサイン何になる・・・」という歌があった。高石友也の「受験生ブルース」だ。つまらない授業の理由として、役に立たないことを丸暗記しなければならないことが挙げられる。しかし、役に立つかどうか、暗記してみなくてはわからない。小学校で九九を覚えるけれど、九九がどう役立つかなんて、理解するのはずっと後のことだ。まずは「我慢と努力」、これが学びの第一歩である。「これを知る者」は、学びの初心者である。
 ある程度知識が蓄積され、その知識がどのように役に立つのかがわかってくると、もっと知りたいという欲求が出てくる。その話題について、他人と意見を交わすことができるようになると、充実感が出てくる。努力したことの成果が目に見えるようになることもやる気につながり、学びの好循環が起こる。好きなことを学ぶのだから、知識を獲得するための我慢や努力が苦にならなくなる。この段階が、「これを好む者」である。
 さらに、学びが進むと、「学ぶ」ということさえ意識することがなくなり、知識を得たり、それを活用したりすることが、日常生活の一部になって、人生の楽しみや生きがいになる。この段階が「これを楽しむ者」である。その行きつくところを考えていたら、中島敦の「名人伝」を思い出した。弓の名人がたどり着く「不射之射」の境地である。「至為は為すなく、至言は言を去り、至射は射ることなし」栄養学を追求して究めると、栄養素を越えたところにたどり着けるだろうか?
by kanri-kokushi | 2016-03-07 13:45 | 論語に「学び」を学ぶ | Comments(0)